エッセイ・・・・・・・“ ふつう 
 
「ふつう」 を盾に話を進められると弱ってしまいます。

「ふつう こういう時は○○でしょ!」 とか 「ふつうはどうなんですか?」 等々。

だから自分もふつうを盾に相手を非難したりしない様にしましょう。

と、決めたにもかかわらず口をついて出るふつう。

こんなにも君に頼る癖がついていたとは・・・・・・。


思えば君の守備範囲の広さと即効性に甘えて随分と世話になってきた。

でも君をよく観察してみると、君が住んでいるのは 「世間」 ではなく

実は 「わたしの中」 なんじゃないかと、

そんなふうに思えて、それなら 「ふつうは○○です」 よりも

「わたしは○○と思います」 の方が潔いカナ? などと考えてみたわけです。


隣人のふつうと私のふつうが違うのと同様に 

『昨日の私のふつう』 と 『今日の私のふつう』 も又、少し違った顔をしています。

ふつうは変化している様です。

十年前の私と現在の私が味噌汁の塩梅で大喧嘩になるかもしれない・・・・

そんな想像をしてみるのも、おもしろいかもしれません。


友人から聞いた話に 

「いい人が多い家庭は争いが絶えない」 

というのがありました。

ここでいういい人とは個々の中にあるふつうが

絶対的であると盲信している人という事でしょうか。

「私は正しい!なぜならば私はふつうなのだから」

・・・・・・・・我家を顧みて 「自分も時々いい人になってるナー」 

などとしんみりしてしまいました。


同じ屋根の下に暮らす家族でさえそんな調子なのですから、

風土や歴史の異なる外国は、自分の中のふつうが

いかに無力であるかを確認出来る場所でもあります。

お祝いのお金を赤い紙に包んで渡すのが礼儀の国の方に

白い袋に赤いヒモが巻いてあるものに入れて渡せば

「なんと無礼な!!」 と怒る人がいるかもしれないし、

「あなたの国ではこの様にするのですね」 

と、興味を持ってくれる人がいるかもしれません。

私がいただく立場であれば迷わず後者でありたいと思いますが。


しかしこれが、国家間の、とりわけ経済の話となると、全く違う話の様です。

誰が言い出したか分らない様でいて皆が知っているグローバルなふつうが

登場したりと、なかなか複雑な様子なので、ここは一つあまりふつうに頼らず、

かといって勘違いして頭にヤカンをのせて街を歩くなどという

奇異に走る事のない様にしたいものだと思います。 


二千数百年前 ある国の王子様が自分の中にある 「普通」 に別れを告げ

「普遍」 的なものを探す旅に出られた。

快適な暮らし、そして妻や我が子があるお城を出られるそのお方を思いながら

「ふつうの志ではないナー」 と・・・あっ!又君か。

                                      合 掌

 
                                原田 裕行



                
                   当社謹刻 釈迦一代記欄間(部分)
                 〜白馬カンタカにまたがり出家されるシッダッタ王子


平成10年9月に発行された持地院様寺報「羅漢」に掲載されたものです。

プライド フルーツ
バックナンバー
阿と吽 “間” 京都、三十三間堂にて ふつう 認める みる 想像力