エッセイ・・・・・・・“ 間 ”
 
「志ん生っておもしろいよ」と友人に奨められ、

遠出をする時の車の中などで師匠のテープを聞き始めたのが数年前の事でした。

最初の内は録音も古いし、知らない言葉が出てきたりで、

何がそんなに可笑しいのか分かりませんでした。


時が経つにつれ、じんわりとその可笑しさが分かり始めてきた頃,

師匠にまつわるエピソードを友人が教えてくれました。

それは晩年の志ん生が高座で居眠りをした時の話で、

一人の客が志ん生に声を掛け、起こそうとすると別の客が、

「おいおい高座で居眠りしている志ん生なんて 

めったにお目に掛かれるもんじゃないよ」


とそれを制し、皆で居眠りをながめていたというものでした。

存在そのものが魅力的だからこそ、

居眠りまでも志ん生の「間」として客がおもしろがる。

そう思わせてしまう志ん生と、そう捉える事の出来るお客さんの余裕に、

なんだか楽しい気分にさせられました。



「間」という言葉は芸能や芸術、武道やスポーツ、料理に人付き合い等々、

いろいろな分野で使われる言葉ですが、

それだけ大切な要素であるからこそでありましょう。

時計や物差しやコンピューター等では計り得ないからこそ

体得しなければならないもの、

そして基本の間を身に付けた上で独自の間を獲得した者こそが、

志ん生の様な名人と呼ばれる人になるのかもしれません。



以前、中国の山水画の大家の作品が仕上がるまでを

見せていただいた事がありますが、

つい数分前まで、ただの白い紙だった部分が見る見る間に空になり、

そこに気持ちの良い風が流れていく・・・・・・

そこには筆を加えていないので、元の白い紙のままなのに、

その下の方に山や木や河が描かれることによって、

そこに風が表現される瞬間というのは正に驚きでありました。

山や河を描いたのは、実は筆を加えていない部分に渡っていく

風を表すためではないのかと思える程でした。

又、千年以上も前に日本で彫刻された御仏像の中には、

眼が彫られていないお姿が沢山いらしゃるのだそうです。

一番重要とも言える目を表現しない事で本来、

その木や石に宿っておられた仏様が徐々にお姿を現し、

今正に目だけを残すばかりとなったという奇跡を表現しているのだそうです。

敢えて表わさないことで表わすという、

これも広い意味での「間」の表現であるかもしれません。



いろいろな「間」の存在を知り、それを味わえる様になるには、

それなりの辛抱も必要なのでしょうが、

興味の赴くまま、たくさんの「間」の中を漂いたいと思う今日この頃です。


「なに間の抜けた事言ってやがんでい」

なんて志ん生師匠におこられそうですが・・・・・・   

                                        合掌

 
                                        原田 裕行
                 
                  当社謹刻 月光菩薩立像


平成10年3月に発行された持地院様寺報「羅漢」に掲載されたものです。

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