エッセイ・・・・・・・“ 阿 と 吽 ”
 
全ての初めをあらわす「阿形」(あぎょう)と

全ての終わりをあらわす「吽形」(うんぎょう)

からなる仁王像の「あ」と「うん」はどちらが偉いのか?

本来一つであったものが二つに分身されて「ニ王」→「仁王」になったという事なので

「あ」 「うん」一対で「とても偉い」という事でしょうか。


吸った息は吐き出さなければ次の息は吸う事が出来ませんし、

食べた物は排泄されなければおいしくいただく事が出来なくなります。

汚れた空気を吸い込めば頭が痛くなりますし、

悪い物を食べればおなかをこわしてしまいます。

心も身体の一部だとすれば良くない物を食べ過ぎてうまく排泄出来なければ

脳ミソのベンピや自家中毒を起こしてしまうのかもしれません。


私自身立派な向学心に燃え毎日を送っているわけではありませんが、

やじ馬な好奇心は旺盛なので「これからは○○の時代」とか

「これだけはおさえておきたい○○」などという挑戦的なコピーに踊らされ、

粗悪なマイコンピューターの空きメモリーをどうでもいい様な事で

ふさいでしまいがちです。さながら合成着色料や薬漬けの食品の食べ過ぎで

胃もたれを起こした状態というところでしょうか。


腸がおかしくなる前に食べるのを控えた方が賢明の様です。


おなかの中には善玉菌がいて、いろいろな悪い物を外に出す働きを

してくれているらしいのですが、心の善玉菌は

「笑い」 や 「感動」 や 「ボーっとする事」だったりするのかもしれません。

バランスが崩れると 「イライラ」 という悪玉菌がはびこり始め、

せっかくの栄養もだいなしにしてしまいかねません。

そんな悪玉菌を無理矢理出そうとして 

「悪口」 とか 「八つ当たり」 という名の下剤をかけても

一時的にすっきりするだけでなおさら悪玉菌を増やしてしまいます。

 

「あ うん の呼吸」 〜 複数の人間の息の合った状態

をあらわしていると認識していたこの言葉も本来一つであった仁王像にならえば

一人の人間の中にある「あ」と「うん」のバランスのとれた状態を

表現した言葉として捉える事が出来ます。

吸う事と吐く事、拾う事と捨てる事、学ぶ事と忘れる事、

どちらも同じ様に大切なのに加える事の方に重きを置いて

バランスがとれなくなっている自分があります。


森進一唄うところの「襟裳岬」によると、わけのわからない事はひろい集めて

暖炉で燃やしてしまえばよいと教えてくれます。

その暖炉に寒い友だちを招き入れて皆であったまれば

「何もない春」が迎えられるとの事です。

そんなすごい暖炉を待たない私はせめて自然の中に身を置く事などで心を慎め、

自分の中の「あ うん」を正していきたいと思います。

                                      合 掌

    
                                      原田 裕行


       
     当社謹刻 木彫仁王像(大本山池上本門寺様山門)



平成9年12月に発行された持地院様寺報「羅漢」に掲載されたものです。


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